ヨコハマ
柳ジョージのアルバムではないです。関係はある
ブランドのことを整理したついでに、そういえば地名にもブランドってあるなと思ったので。
5年以上前の話だが、長崎出身の後輩が横浜市に住んでいるという話題になった時、横浜出身の後輩が
「地方の人は横浜に憧れがあるから・・・」みたいな言い方をしていて、虚を突かれた記憶がある。
その時は「小机(横浜くんの実家のある横浜線沿線の駅、内陸)に憧れている人は居ないんじゃないの?」とだけ言っておいたのだが。
どうやら「地方の人は横浜に憧れている」と思っている横浜市民は少数派ではないらしい。
存在感はあるんですけどね。
自分の横浜イメージを作ってきたものを順不同で並べると
音楽から柳ジョージ、ダウンタウン・ブギウギ・バンド、少し後の横浜銀蝿
浜田省吾にも少しだけイメージがある。
ドラマの探偵物語
マンガの特攻の拓、あいつとララバイ・・・
どうしてもバッド・ボーイズ寄りのイメージが先行しています。
テンションは上がるけど「憧れ」というのとは違うと思う。
思い起こせば
地名のイメージというのも、小説や映画、ドラマの舞台になったり歌に歌われたりということの積み重ねが形作っていくもののようだ。
そういう意味では横浜の蓄積は強い。日本有数だと思う。
東京の場合は、銀座とか、渋谷、新宿の街レベルで横浜全域と勝負できる地名が複数あるので、東京とは勝負にならないけど。
名古屋には勝てそうな気がする。
大阪、京都ともいい勝負ができそうな印象だ
地方都市などがブランド価値を上げるにはどうしたらいいだろうか?
B1GPで新名物を作ったり、旅番組で取り上げてもらうのもありだろうが
一番は物語や歌の舞台になることだと思う。ヒットすること前提ではあるが。
「聖地巡礼」する人が出るくらい受ければしめたものである。
チャンスは少ないけど、プロスポーツチームのホームタウンになるのはコストパフォーマンスが良さそうだ。頼まなくてもメディアが取り上げてくれるあたり。
ブランドについて
昔から「物が売れる」ということに興味があった
同じような商品がヒットしたり売れなかったりする
その理由はなんだろう?その答えにはなかなか到達できそうにも無い
そのなかで「ブランド」というものについても色々考えたりしてきた
今回はその話
小学生の頃、ワンポイントのポロシャツが流行した。それもラコステとかアーノルドパーマーの時代
そのころは、中学の校則でソックスのワンポイントが禁止されたことが話題になったり、ちょっと隔世の感がある。
しばらくして「無印良品」という店が展開し始めた。
中には「無印良品は無印と言いながら、『無印良品』というブランドだよね」などとしたり顔で言う者もいた
自分は無印良品のコンセプトは、ブランドの否定ではなく先祖返り、ブランドが売り手・作り手への信頼に直結するものに戻すこと。と、当時から思っていた。今も間違ってはいないと思う。
ので、批判になっていないなあと感じていた者だ。
ここまでが前提
ブランドというのは経済的にいうと「付加価値」なんだろう。
シルバーアクセサリーが、下手なブランドのプラチナよりも高値で、ちゃんと売れていくところを見ると
消費者は商品よりもブランドを買っていると言っても間違いでは無いと思う
話がややこしくなるといけないので、ここでいうブランドは、付加価値として機能するブランドのことを言っています。
ダイソーのシャツにでもメーカータグは付いていますが、そこに記されているメーカー名はブランドのくくりに入れていません。
その付加価値を高めてきた戦略・戦術であれば、とっつき易いのでは?
ということで、以下は思いつく限りブランド価値の成り立ちについて分類していってみようと思う。
もちろん例示するのは自分が思う典型例であって、普通は複数の手法を組み合わせていると思うので、そのつもりで。
1,歴史そのものがブランドになっているケース
エルメス、ルイ・ヴィトンなど
その店やメーカーの歴史が古く、商業的ブランドが成立する前から知名度があったようなパターン
特に手を打たなくても知名度があり、雑誌などの特集があれば歴史やエピソードを記載されるレベル
2,デザイナーがブランドになるケース
シャネル、アルマーニなど
シャネルくらいになると、本人のエピソードが「世界ふしぎ発見!」で取り上げられたりする
こうなるとデザイナーが引退し、亡くなった後でもブランドとして営業していける
新進デザイナーは、ショーやコレクションに参加して、認知を高め、「モード」をつくっていくことに腐心していると思う
3.イベントのスポンサーになるケース
この手法が一番多いと思う
スポーツイベントのスポンサーになったり、機材を提供したり。スタジアムのネーミングライツもここに入ると思う
イメージし易いのは時計メーカ
セイコーは東京オリンピックでストップウオッチを提供し、画面にタイムと共にSEIKOが映ることで名が知られた
タグホイヤーはF1で知った
オメガは、アポロで月に行ったことが、今も伝説になっている。
自動車メーカーがレースにワークスで出るのもそう
スポーツ用品では、スター選手の道具を開発するという形もある、エアーマックスとか
この手法の良いところは、そのイベントのドラマとか感動を取り込むことができることだと思う。
別に時計がSEIKOだろうがどこだろうがタイムが変わるわけでも無いけれど、世界新の記憶の片隅にSEIKOはすり込まれてしまう。
4,フィクションの小道具として露出するケース
3.のフィクション版で、原作についてはブランドというより製作者側の演出意図だと思います
(私にとってジタンというタバコのイメージは「飛んでイスタンブール」で作られました)
が、それを映像化する際には、協力企業の力が働きます
例を挙げるなら
「ティファニーで朝食を」のティファニー。まだ日本が貧乏なころ、ニューヨークに行ったことのある知り合いが一人も居なくても
大抵の人は5番街にティファニーという店があることを知っていたと思う
もう少し近い例でいうと「のだめカンタービレ」のドラマで、千秋がプレゼントをスタージュエリーで選んだシーンを思い出します。
あれでスタージュエリーというブランドとミステリアスセッティングという宝石の留め方ががっつり記憶に残りました。
映画「キャノンボール」おける三菱車とか、成功例とは言い難いものも多いですが
これもロケ地や小道具を提供するだけで、ヒット作品のドラマや感動を取り込めると思えば「お得」だと思います
5.CMでイメージを高めるパターン
あまり説明はいらないとは思いますが
うまいなあ、と思うのは
コカ・コーラ バブル期の若いサラリーマン。OLが集団で出てくるシリーズ
ポカリ・スェット 一色紗英とかのシリーズ
そもそも、こんな文を書こうと思ったきっかけは、年末にYoutubeを見ていて、ポカリ・スェットの歴代CMを繋いだものを見たからで
商品はあまり前に出さず、今でいう「リア充」なシーンを描いて、その傍らには・・・というパターンですね
このパターンは割と好きなのですが、食品系に良いものが多い気がします。
自動車なんかは、イメージを上げようとすると共感を持ちにくい傾向がありそうな・・・
思いついたのはこれくらい。
気がついたら補足もしくは別項で
2019.3.14追記
「無印良品のコンセプトは、ブランドの否定ではなく先祖返り」と思っていましたが、「トレードマークの情報化」かもしれない
古いmacbookをSSD化した
MacBook Pro (13-inch, Late 2011)のHDDをSSDに換装したので
忘れないうちにメモ
MacOSが山シリーズになった頃から、起動が遅くなったり、時おりプチフリーズを起こすようになっていたので、クリーンインストールしたいなと思っていた。
High Sierra からSSDはAFSというファイルシステムになって、さらに高速。という話が後押しした。
用意したSSDはSanDiskの SDSSDH3500G という機種
作業順はざっくり以下の通り
1.SSDをポータブルhddケースに入れ、MacBookに接続
2.Command + R を押しながらMacBookを再起動
3.ディスクユーティリティからUSB接続したSSDをフォーマット(もちろんAFSで)
4.High SierraをSSDをターゲットにインストール
※計って無いけど、20分くらいで終わった
5.そのままレコメンドに従って、アプリやファイルを移行
※これは長くて、約5時間かかった
6.USB接続したSSDからOSを起動し、写真とかが移っているか確認
元のHDDからもOSを起動できることを確認し、シャットダウン。
7.裏蓋を開け、HDDとSSDを入れ替え
事前に先人たちの記録をググったところ、バックアップを取ったうえでディスクを換装し、インストールしている例が多かったのですが、「入れ替えればどちらでも立ち上がる」ようにしておきたかったので、上記の手順とした。
バックアップから戻す方が時間はかからなかったかも知れませんが、今回はリスクの少ない方を選んだ感じ。
その後、一応
・TRIMを有効化(ターミナルから sudo trimforce enable を実行)
・Macs Fan Controlをインストール
しましたが、SSDの温度センサを認識しているようなので、Fan Controlのほうは要らなかったかも?
感想としては
全体的にスムーズになったと実感できます。特にプチフリーズ的な現象は出なくなりました。
SSD化が効いたのか、クリーンインストールが効いたのかは分かりませんが
これで、あと数年は闘えそうです。
末法思想
友人に
「今の子供たちは未来というのは、自然が破壊され人類が滅亡しているといったイメージが強く刷り込まれてしまっているようだ
ふと、末法思想ってこんなイメージに近かったのじゃないだろうかと思った」
といったことを言われたので
最初に思ったのは
ギリシャ神話か何かで、歴史は
金の時代→銀の時代→青銅の時代
と進んで、人の歴史が始まったのは青銅の時代
というのと
中国の理想が堯、瞬の時代
というものです。
「世の中と言うのはどんどん悪くなるものだ」
というのは、ある種普遍的な感覚なのかな?と。
次に思ったのは
「デフレの根本原因は少子化である」
という説。
家族の中で、子供世代が親世代より人口減になって行くと、無意識のうちに、社会の衰退を感じてしまうのかな?
ということです。
資料を読むと末法思想というのは、モラル崩壊に近いものに思える。
現代的なイメージで言うと「北斗の拳」的な未来像が近いかも。
バイオレンスジャックでも良いけど。
伝聞を重ねるにつれ、情報が劣化していくことへの不安という側面もあるかな
仏法の正しい意味が伝わらなくなり、無法者が増えていくよ、的な。
ついでに
浄土教と言うのは、それ自身がオリジナル仏教とかけ離れたもので、ある種末法的な存在だと思います。
末法の世では悟りに至れない
↓
死後、浄土に生まれかわろう。
↓
浄土であれば、いつか悟りに至り、成仏できる
というロジックで、現世は浄土に生まれかわることを目的に生きていく教義ですから。
現世が末法であることを前提にしていると思われます。
クリーンエネルギーとかを浄土教的と捉える見方もあるみたいですけど
私には浄土教より、クエーカー教徒とかものみの塔との親和性を感じます。
近代以降発見されたり発明されたものに否定的なあたり
未来のイメージなんてものは
地域社会に子供が多くなれば明るく、
少ないと暗くなって行くくらいのもの
のような気がします。
どうでしょうか?
青銅器
少し時代を進めて
上野の博物館で銅鐸のレプリカを見た。金色に輝いて、鐘のような音を響かせていた。
古墳時代なのか、青銅器が多く出土される時代があって、銅剣文化圏とか銅鐸文化圏とか教科書に載っていたものだ。
いまだに納得がいっていないのは、それらが「祭祀に使われた」と説明されていることだ。
祭祀に使われた可能性を否定はしないが、それらが実用品であった時代は無いと何故断言できるのか?
銅鐸が鳴りものとして使われた可能性は高いと思う
銅剣・銅鉾はどうだろう?武具として使われていた時代は無いのだろうか?
鉄器が普及する前は青銅器時代があり、古代中国では武器も青銅の時代があった。
銅剣もレプリカを作ってみて、どのくらいの切れ味なのか?という研究も、考古学にはあって良いと思う。